2011年3月29日火曜日

― 素 晴 ら し い 仲 間 達 ―


25日
25日から奪還の会の仲間が来てくれた。
まず新地の避難所に行き、トラック2台分の救援物資を送り届けた。新地の皆さん「新しい靴と靴下など、今一番欲しいものを集めてくれた」と大変喜んで下さった。
さらに、相馬に入って、少し遅い時間になってしまったが新しい靴と靴下・下着を配った。
本当に心から「助かった」「ありがとう」の声が返ってきた。
私は、こんなこんな素晴らしい仲間に感謝している。行政では出来ない事。きめ細やかな対応に心から感謝している。
持って行った時の、皆さんの安心する顔、そして靴や靴下がきた事への喜び、本当に多くの協力してくれた仲間に感謝したい。人間がつくる社会・人のつながり、私達日本人の誇りだとあらためて感謝する。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27日
遺体捜索隊2日目、朝700出発で黙々とみんな頑張ってくれている。南相馬市中川庄一市議大隊長指揮の元、全員が警察隊とともに捜索に入った。
始め黙祷から心が入る。寒い中、警察の防備とは違い誰が見ても素人集団、しかし本当に真剣に、早く遺族のもとに帰したいという気持ちが全員から伝わってきた
そんな中に谷垣総裁が我々捜索隊のところにも来て下さった。現場を見て、黙々と頑張るみんなをしっかり激励して下さった。それどころか一人一人頭を下げて「ありがとう」と感謝の気持ちをのべて下さった。

~今一番苦しい飯舘村へ~
放射能濃度が日本一高いという事実は村民を失望へと追い込んでいる。
菅野典雄村長はじめ多くの方々ががっかりして肩をおとしていた。
村の関係者全員が集まっているところへ、まず、私達奪還の会のメンバーが入り、皆さんの声をきいた。誰からも出る話に、本当に今飯舘村の追い詰められている状況がわかった。「なぜここだけが一番放射能濃度が一番高いのか?」「これからこの農業立村はどうなるのか?」谷垣総裁がくる前に一通り聞いた。 そこに谷垣総裁が到着し、一人一人から丁寧に要望を聞き、丁寧に応えてくれた。奪還の会のメンバーが先に話し合いをしてくれていたから、皆様落ち着いての要望活動会議になった。

谷垣総裁、奪還の会、素晴らしいメンバーたち


わたしの誇れる素晴らしい仲間たちだ。この奪還の会のメンバーが毎日捜索活動に参加してくれた。黙々と誰にPRすることなく只、被災者を早く家族、親族のもとに返してあげたい。と朝700出発帰りは夜1000過ぎまで只ひたすら頑張ってくれた。来られないメンバーは物資でと出来る範囲で頑張ってくれた。私は心から心から頭を下げたい。

私達の活動は黙祷からから始まる。被災者の皆様方のご冥福を祈る。これだけの災害は過去にはない。私達は私達にできること、やれることをしっかりやることをあらためて心に誓い、捜索活動を始める。

最初に今日の捜索場所の確認範囲を決める。現場で続けてきた亀岡が陣頭指揮をとる。





警察隊と一緒になって活動する。この日は警察隊と奪還の会のみがこの渋佐地区(南相馬市)の捜索活動にあたる。

重機が重いものやガレキをどかす、その中を我々が確認する。





自民党災害対策本部から西村康稔議員が視察に来られた。亀岡が戻り、現状を説明する。




私のもっとも誇れる若者の集まり“政塾”まつりじゅくの支援活動。水原政塾、飯坂政塾の皆さんが500人の皆さんにアツアツのたこ焼きをごちそうしてくれた。この素晴らしき仲間達に心から感謝。毎日毎日が感謝の連続だ。磯辺で家を無くした方々に大変喜ばれた。
ボランティアの後に現地に来た政塾の若者に現場の状況を説明する。一同はまったく声が出なくなった。自然のこわさを改めて感じた日になったと思う。



捜索活動現場に自由民主党の谷垣総裁が激励に来て下さった。私達が今できる事を全国から集まった自民党奪還の会のメンバーでやっている姿に心から感謝をされた。できる事ならここで自分も参加したいというような雰囲気だった。
松本文明隊長と握手









秋元司、山際大志郎隊員から報告を受ける









地元の指揮官である南相馬市の中川庄一市議から説明を受ける。








このバスの正面に自民党災害対策本部と大きく書かれていてかなり評価された。逃げるどころか捜索に来た決意を評価してくれた。





議員をはじめ関係者全員が集まっていた。皆さんの思いがよくわかった。








飯舘村への支援物資(医薬品)を届ける。その時村の関係者全員から要望をうける。まさに今一番困っている地域であり、国への不満が爆発した。現状がよく理解できたし我々がやらなければならないこともよくわかった。

2011年3月25日金曜日

福島市内で一番の被害者を訪ねて

― 福島市内で一番の被害者を訪ねて ―
今日は、福島市内で一番ひどい災害にあったあさひ台に行った。後援会の江崎さんのお宅を見てびっくりした。新築したばかりの家が、家ごとガケ下に押し流されていた。
蓬莱の避難所に訪ねると涙ながらに残念がっていた。ご夫婦でいらっしゃるのかと思ったら近所のがけ崩れ流された多くの家庭の方もいらっしゃった。今後の復旧に私も全力でお手伝いすることを約束してきた。
~福島南体育館へ~
ここも家を無くした南相馬地方の方~相馬市の方などたくさんいた。
風邪をひかぬようマスクをたくさん置いてきた。一人一人お話していくうちに、大変お世話になっている方にお会いすることができた。「亀岡さんに会いたかった。夢にまででてきたのよ」と言われて思わず涙ぐんでしまった。「いつきてくれるのか?必ず来てくれると思っていた。」と言われた時は心に響いた。
~鹿島から原町へ(南相馬市)~
鹿島町の避難所に下着を届けた。みんなの前に並べて声をかけたらみなさん自分の欲しいものをそれぞれ選びながら「ありがとう」と言ってくださった。さらにカレーをつくって皆さんに食べて頂いた。帰る時は拍手を頂いた。その後に南相馬市市役所の鹿島支所に行きみんなにあたたかいカレーを食べていただいた。みんなから「おかわり」と言っていただいたり「美味しい」と言われたりすると何よりもうれしい。さらに余ったら置いていって、明日食べるからと言われて残りを鍋に置いてきた。「また頼むね」と言われて、また来ようと思いながら炊き出しを終えた。
~この炊き出しで思うこと~
毎日毎日500人の炊き出しが行えるのもスタッフのおかげだ。このスタッフのおかげで多くの皆さんのお腹と心をあたためることができる、亀岡事務所のスタッフに心から感謝する。我がメンバーは誇れる日本一のメンバーだ。あらためて「ありがとう」(また明日頑張ろう!!)

今日の一日

3月23日、待望の下着が届く。自民党災害対策本部の参議院議員丸川珠代先生から連絡が入る。午前10時出発したとの事。
待ちに待った下着だ。どこに行っても着のみ着のままで逃げてきたから、今一番欲しいのは下着と言う方が多い。いろいろな所にその情報を流したら、自民党の災害対策本部から何とかしてみるとの返事。
昨日、丸川先生から下着を送りますとの事。よくあっと言う間に集まったなと思ったら、安倍晋三先生がワコールの塚本社長にお願いしたら心よく応じてくれて、すぐに供出してくれたとの事。ここでも感謝である。皆様の善意と心のリレーがつながって下着が到着した。また運んでくれた運転手の方が素晴らしかった。
そう言えば今回物資を運んでくれたどの運転手の方の働きも素晴らしかった。「私は待っていたんです。うちの会社は何もしないのかと思っていた。ようやくお手伝いが出来る。」そう言って頑張って下さった。
-----新地から下着を配ってまわった。ここで少しウラ話をさせていただく。-----
(ここは非公式なので忘れて欲しい)

各災害対策本部⇒数が揃うまで出せない(平等性のため)
数が揃わない時は、集まるまでストックしておく。
配れない。
すぐに使ってもらうには?
新地町の災害対策事務所に行って話しをさせていただいた。最初は皆黙っていた。
ダ メ = 勝手に配らせて下さいのお願い

ここでさすがだと思ったのは齋藤賢一町議会議長だ。
「よし。わかった。亀岡に任そう。」と言って下さった。私は嬉しかった。涙が出る程。
この決断はなかなか出来ないし、誰も言えない。その事を一番わかっているのは私だ。
その壁をぶち破ってくれた。うれしかった。
すぐ新地町の避難所に持って行った。本当にみんな喜んでくれた。



相馬「はまなす館」へ
入っていくなりみんなから「昨日は美味しかったよ。ご馳走様」と声をかけられた。亀岡事務所スタッフ全員で作ったカレーで「心があったまったよ」と言われた時は思わず涙ぐんでしまった。「毎日ありがとう」と言われ、またまた手伝ってくれたみんなに感謝した。
私の力ではない。多くの仲間の力の結集が、少しでも被災された方々の心をやわらげていると思うと本当に嬉しかった。

「相馬アリーナ」へ
ボランティアの方がすぐ表に出てきてくれた。みんなであっと言う間に物資を下ろす事が出来た。「下着です。」と言うとみんな喜んで下さった。

「中村一小」へ
入っていくと結構、物資が集まっていた。新築なので住みやすそうな感じだった。物資の中身を「何がいくつ。何々がいくつ。」と下ろし始めると女性達から「これが欲しかったのよー。助かったわぁ」と言う大きな声が聞こえてきた。
ここで私がびっくりしたのは、校長先生が私を案内して下さったことだ。
校長先生は、病気の人の為にと色々配慮されたり、きめ細かくしっかり対応されており。
責任者として素晴らしく。また施設をうまく活かしていた。

さいごに今日届いた1tの味噌を相馬市役所へ届けた。報告のため市役所に入っていくと相馬藩主の相馬兄弟が激励に来ていた。北海道と九州から駆け参じたとのこと。
これからの相馬復興の為に、ともに力を尽くそうとガッチリ握手をする。
P . S
ようやく夜遅く帰って来たら、素晴らしいことがたくさん待っていた。
まず、私達の活動を聞きつけて福島テレビの中村啓治さんが激励に来て下さった。
震災後初めて事務所全員で外食をする。ずっと、わずかな食料のあまったものを分けて食べていたのでうれしかった。しっかり頑張って下さいと激励していただく。

ヨークベニマル
次に嬉しかったのはヨークベニマルの皆様が、避難所に下着や靴下・靴を持ってきて下さった。それどころか1人1人に「何が足りませんか?」と声をかけ注文をとって、必ず明日届けますと言って下さったとの事。私もびっくりした。
その責任者であるゾーンエリアマネージャーの佐藤賢一さんがベニマル野球部の主力選手だったことを聞き、さらに親しみを持つことができた。
明日(24日)に、南相馬の避難所及び消防団・職員500名分のカレーを作りに行くと言ったら食材を全部用意して下さるとの事。改めて感謝感謝の1日であった。

後輩が
事務所に戻ったら私の野球の後輩の岩根正也君が避難所の皆様に牛乳を届けてくれていた。みんなみんな本当にありがとう。

心痛んだこと
中村一小で久しぶりに原釜の人にお会いした。私が大変お世話になっている人だ。会った途端、「兄ちゃんが、姉が、いなくなっちゃった」2人とも私が大変お世話になった人だ。「亀岡さん助けて」本当に悲しそうな目で見つめられ手を握られた。帰り際には「家の無い者が頭を抱えている」何かと思ったら家を新築したばかりなのに家はなくなり借金だけ残って、若い人が下を向きっぱなしだという。これからどうやって無くなった家の借金を返済したらいいのだろうと落ち込んでいるという。なんでも相談にのるから今はまず健康第一で頑張ってと元気づけたが、多分気休めにもならないだろう。でも何とか、何とか、協力しようと心にかたく誓う。

24日の予定
各残りの行ける避難所にマスクと下着を届けるとともに南相馬市で頑張っている避難所の皆さんと、この厳しい中で市民の為に頑張ってくれている市の職員と全然見つからない行方不明者の捜索を続けてくれている消防団の皆さん全員の300名のカレーを作りに南相馬市の鹿島に入ります。

2011年3月23日水曜日

盟友、師からの思いと行動へ感謝、そしてつながる勇気

21日は、元参議院議員の秋元司先生から届いた15万個のマスクを、各避難所に持って行って配らせていただいた。各地で風邪が流行り始め、インフルエンザが一番こわい所である。簡単に使用できるマスクは各地で喜ばれた。
又、夕方、中條会長からTELがあり、「米は届いたか?」との問い合わせの中、㈱興沖の佐々木實会長が自分の運転でトラックを引き連れて6tの米を持ってきて下さった。すぐに相馬市まで案内し6tの米をおろした。立谷市長も心からの感謝の気持ちを表してくれた。74歳の会長自らが運転して来て下さったことには、改めて心から敬意を表わしたい。
22日には、千葉から前衆議院議員で奪還の会の仲間である桜田義孝先生が自らトラックに乗り込んで救助物資を運んで下さった。本当に皆様からの物資に心から感謝を申し上げたい。
各地区をまわりながら「はまなす館」に避難している皆様に500名分のカレーを作ってごちそうしてきた。皆様、おかわりをして下さって嬉しかった。カレーを作りながら皆様を訪問したら少しずつ笑顔がかえってくるようになった。
桜田先生に現地を見ていただいたら絶句していた。あまりの悲惨さに声も出ない様子だった。自然の怖さ、さらには原発の脅威、まさにWパンチの相馬地方である。
しかし、「いつでも何でも応援するよ」と帰りぎわ皆が言ってくれるこれだけ多くの皆様の協力をいただき、新たな勇気がわいてきた。  
被災地の皆様が新たな希望を見出せるように更なる努力を心の中で誓った。

残されたもの。震災の爪あと、そこから立ち上がる人々、みながひとつに。(3月22日)

桜田義孝先生(自民党・奪還の会)が物資を運んできて下さった。

水没してしまった相馬市磯辺地区に桜田義孝先生が入った。この通り沿いには町があった。一軒もないのにびっくり。津波の凄さを改めて感じていた。復興の為には何でもすると言っていただいた。

わずかに残った建物も“悲惨”だ。

一生懸命自衛隊、警察、消防団が一緒に行方不明者の捜索を続けている。何もない街、本当に悲しい。

トマトとカレーを一緒に差し入れ、このトマトが以外に喜ばれた。

22日は500人のカレーをつくる。大鍋もなれたもの!

最近の亀岡の定番、タマネギと人参のサラダ。鈴商グリーンの鈴木正志さんが作ってくれている。石橋市議もお手伝い。

皆さん行儀よく並んでうけとる。しっかりとした秩序が出来上がっている。

相馬高校のバレー部のみんながボランティアでお手伝い

カレーの自慢を配る前にする

勇気づけられる贈り物(3月21日)

霊山町(伊達市)中央公民館のみなさんのお話を聞く21日はカゼが多くなってきたのでマスクを配って歩く

なんと6tのお米が届く、亀岡よしたみ後援会 達山会 中條高徳会長の友人 佐々木さんがトラックで自ら持ってきて下さった。

こんな救援物資は見たこともない。初めてだ!!

夜の9時過ぎに相馬市の倉庫へ到着

リフトで降ろす、さすがに多い。

相馬市の立谷市長も感激 感謝とありがとうの連発でした。


2011年3月22日火曜日

清水中の野球部のみんな。ありがとう。

ボランティアできてくれた清水中の野球部のみんなが差し入れも持ってきてくれた。清水中の野球部のみんな。ありがとう。

ヘア&フェイスさくら

相馬地方から避難されている方々にシャンプーとリンスを無料で提供してくださっている「ヘア&フェイスさくら」(福島市野田町一丁目)の寺島朋子様と後藤榮子様です。
約2週間ぶりにシャンプーをしてもらった佐藤様は「本当に気持ちがよくて癒されました。感謝感謝です。」とおっしゃってました。





2011年3月21日月曜日

心あたたまるでき事!!

心あたたまるでき事!!
素晴らしき三河台の皆さん
亀岡事務所で避難生活支援のお手伝いをして下さっている近所の方々が素晴らしいプレゼントを下さった。チサンマンション東中央の皆さんが、笠間勝良理事長をはじめ有志の皆さんがお風呂を提供して下さった。約10日間お風呂に入っていなかった避難所の皆さんは大喜び。チサンマンションの皆様、ありがとう。心から御礼申し上げます。

突然の出来事

突然の出来事
昨日夜中の3時に電話がかかってきた。
相馬にきてくれた長島忠美先生からだった。
「カメちゃん、困っている人から連絡が来た、対応してくれないか?」との事。
すぐ連絡をとったら先程旦那様が亡くなられたがガソリンがないので相馬から福島県立医大まで遺体を取りに行けないと泣きながらお話をされた。
家もなく、なにも無い中で遺体をどうしたらよいかわからない。福島でだびにふせないかと言われ、朝一番で福島市役所と話をする。みんな一生懸命対応してくれた。
本当に頭が下がる。結局相馬でやることにはなった。

頼もしい仲間たちとともに。モグラ救援隊、皆、ありがとう。

私の事務所でも70名の避難している方々が頑張っている。
山古志村の体験を述べながら全員を激励してくれている自由民主党災害対策本部長、長島忠美、徳田毅両先生
長島忠美先生(元山古志村村長)が歩いて下さる
徳田毅先生も奄美の災害時にはお世話になりましたと九州から駆けつけてくれた
100歳のおばあちゃんを励ます
桑折町町長と救援隊全員で並んだ
伊達崎公民館に避難された人々から「この桑折町の人々は本当にあったかい」とお褒めの言葉。私も亀岡政治の出生地と胸を張る。
家がまったく見当たらない相馬市の磯辺地区

もぐら救援隊の物資に喜んでくださった。もぐら救援隊、もぐら基金ありがとう。
もぐら救援隊の難波隊長が持参の水サーバーを設置

相馬市でほぼ全滅してしまった磯辺地区の皆さんが避難している「はまなす館」冷たいおにぎりばかりで温かいものが食べたいとの声が事務所に届き、亀岡事務所総動員でとん汁とサラダをつくる。大阪からきたもぐら救援隊の難波秀哉隊員もお手伝い。

相馬市の避難所「はまなす館」500名を超す人たちの為に亀岡も頑張る。お腹だけではなく心まであたたまるように…。と願う。
ボランティアの皆さんが配膳のお手伝いをしてくれた。500人とはいえ大変だ。
何事も段どりが大切
もぐら救援隊の救援物資を避難所で降ろす。送り出しの皆さんありがとう。

12時間運転し続けてくださったボランティアの田中さん。大阪からかけつけたもぐら救援隊の難波隊長、南相馬市避難民代表の高橋さん。夜10時全てを終えてガッチリ握手。実りある救援活動、本当にありがとうございました。心より感謝!!

全部終わったのは夜中

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